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徳島地方裁判所 昭和43年(ワ)397号 判決

原告 島田千賀

右訴訟代理人弁護士 小川秀一

被告 朝風計二

右訴訟代理人弁護士 武市忠治

主文

一、被告は原告に対し金八八九、九〇二円及びこれに対する昭和四三年五月一二日より完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二、原告のその余の請求を棄却する。

三、訴訟費用はこれを五分し、その三を原告の、他の二を被告の負担とする。

四、この判決は第一項に限り金二〇〇、〇〇〇円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実

≪省略≫

理由

一、訴外江西正則が被告所有の本件自動車を運転中昭和四三年四月一九日午後五時五〇分徳島市二軒屋町一丁目四四番地の五先交差点路上において、訴外島田和子運転の自動二輪車に衝突して交通事故を起したこと、右交通事故によって右和子が同月二五日午前零時一五分死亡したことは当事者間に争いがない。

二、そこで、右交通事故について被告に自動車損害賠償保障法三条の運行供用者責任を認め得るかどうかについて考察することとする。

まず、被告が本件自動車を所有しその保有者であること、訴外江西正則が被告の使用人であり、自動車の運転免許を有しない者であることは当事者間に争いがなく、更に≪証拠省略≫を総合すると、被告は徳島市仲之町三丁目に事務所をもち、同市法花町(二軒屋町)に倉庫をもって水道配管事業を営んでいるものであり、右被告方では被告の長男主治(当時二八才)、次男主利(当時二六才)、三男主広が右事業に従事し、なかでも右主治、主利は工事現場等で被告に代って作業の監督指示をしており、また、前記江西は昭和四三年一月頃被告方に配管工として雇われ、配管、電気熔接等の作業をしていた者であること、昭和四三年四月一九日当日右江西(当時二三才)は被告の息子前記主利の運転する本件自動車に同乗(助手席)して海部郡日和佐町から阿南市阿南高等工業専門学校の工事現場に寄り、同所で後始末の道具等を積んで徳島市内の前記倉庫に帰り、同所で積荷を降して作業を終ったので、あとは、それぞれの運転手が平素車両を駐車している前記仲之町の事務所前まで右倉庫前の自動車を運転して帰るならわしになっているため、江西はいつものようにこの便に乗って右事務所に帰る予定であったのであるが、それまでに、江西は時折練習かたがた普通自動車を運転したこともあり、当日も日和佐町から阿南市橘町付近まで運転手の主利に言われ代って本件自動車を運転したこともあったりしたので、右倉庫での片付けを終った際、運転手の右主利が見あたらなかったので、自ら事務所前まで運行するつもりで、他の被告の息子主広を同乗させて本件自動車を運転出発し、間もなく前記事故現場の交差点に差しかかって本件交通事故を起したものであること、以上の事実を認めることができ(る。)≪証拠判断省略≫

右事実関係よりすれば、江西は事故当時本件自動車を被告方の業務の一貫として予定された事務所前まで運搬すべく運転したのであるから、右運転は外観においてもその主観においても保有者たる被告のための運行というべきであり、仮に被告あるいは主利が右江西の運転を知らず、同人の運転を予定していなかったとしてもそれが被告のための運行であることに変りはなく、被告は右江西の本件自動車運転につき運行の支配と利益を有するものとして前記運行供用者の責任を免れないものといわなければならない。

そうすると、被告が使用人江西の選任、監督につき相当の注意を尽した旨の民法七一五条一項但書による被告の抗弁は判断の要がなく、また自動車損害賠償保障法三条の免責要件について被告から主張、立証がないから、被告は訴外島田和子の死亡による損害を賠償することになる。

三、進んで、原告の損害について検討することとなるが、まず、和子の生い立ち、原告と和子の親族関係、生活関係等をみるに、≪証拠省略≫を総合すると、

(一)  原告は古くからその夫隆夫、その母チヨウと共に肩書住所地に住み、食堂(うどん屋)を営んでいた者であるが、夫婦の間に子供がなかったので、昭和一六年一月九日右隆夫の弟島田喜代次(大正八年一一月六日生)を養子としたが、右喜代次は間もなく出征し、更にその後昭和二〇年五月頃戦災で父を失った倉橋里枝(昭和一三年一一月一九日生、原告の弟倉橋栄の四女)を引取って養育し、昭和二一年一二月二日になってこれも養子としたこと、その間終戦を迎えて昭和二一年三月頃前記喜代次が帰還し同居することになったので、原告ら夫婦は右喜代次に跡継ぎをさせる予定で同年一〇月頃ヨシヱを喜代次の嫁として迎え、翌昭和二二年一月挙式(婚姻届は同年五月二〇日)して夫婦にさせたところ、同年一〇月八日その間に長女和子が出生するに至ったこと。(原告の夫隆夫は間もなく同年一二月一七日死亡し、その母チヨウはその後昭和三〇年三月九日に死亡した。)

(二)  ところが、右喜代次は昭和二三年九月一一日に病死してしまったので、原告が孫の和子の子守をし、ヨシヱが行商などをして辛じてその生活を支えていたが、昭和二六年一〇月右ヨシヱが小山健治と結婚することになって一旦は和子を伴って行ったが、和子が嫁ぎ先になつかないので、やむなく原告が右和子(当時三才)を引取って前記里枝と一緒に育てることになり、うどんのほか、ビール、清涼飲料、日用品等を売るささやかな飲食業を営みながら里枝、和子の養育を続け、右和子については昭和二九年一月八日母ヨシヱが親権を辞任したので原告がその後見人に就任し、母親同様の愛情と労力を傾けてその養育につとめ、また自らの費用で和子を小学校、中学校、更には市内香蘭高等学校に進学させて昭和四一年三月ようやく同校を卒業させるに至ったこと。(この間ヨシヱは時折和子の顔を見に来ては小遣をくれる程度であった。)

(三)  和子はこうした自分の生い立ちを知って母親同様に自分を育ててくれた原告に報いるつもりで、右高校卒業後市内の書店に勤めながら、そのかたわら朝晩は原告の飲食店の掃除、準備、出前の手伝などをして働き、その後昭和四二年一月頃から右手伝の時間を多くするため勤務時間が午前一〇時過から午後五時までの他の商店に勤めを替えて原告の商売を手伝っていたが、その頃まで原告の手伝をしていた前記里枝は同年四月結婚して家を出たので、既に六〇才を越える原告としては将来和子に婿をとって同居し、和子の世話を受けるつもりで期待を寄せ、和子もそれを誓っていた矢先、前記のように昭和四三年四月一九日本件事故に遭遇して死亡するに至ったものであること。

(四)  右事故当時和子は商店の勤務で一ヶ月約一五、〇〇〇円の給与を得、これを一旦原告に手渡して小遣を貰い、他方原告は里枝や和子の手伝を得て三〇、〇〇〇円ないし四〇、〇〇〇円の営業利益を得ていたこと。

以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

四、そこで、前項認定の事実関係を前提として原告主張の損害について考察してみる。

(一)  扶養請求権喪失による損害について。

一般に不法行為によって扶養請求権を害された遺族はその生存可能期間に限り扶養義務者の稼働利益の範囲内においてその扶養利益に相当する損害の賠償を請求することができると言われているが、右の扶養請求権があると言い得るためには、扶養関係当事者(これは法律上の関係のみならず、内縁の妻、未認知の子など事実上の関係でもよい。)において、不法行為の被害者たる者が扶養可能の状態にあるとともに、その遺族が要扶養の状態にあることが必要であり、しかもそれは双方に抽象的にその可能性があるだけでは足りず、現実に一方が扶養可能であり、他方が貧困その他の事情で扶養を要する状態になければならないと解するのが相当である。

前記四項認定の事実によれば、原告と和子とは島田喜代次を介して法定の直系血族の関係にあるから、法律上相互に扶養義務を負い、これを請求できる関係にあることは言うまでもないが、その実際において、和子は他の商店に勤務して給与を得ていて自活能力がなくはないにしても、事故当時は成人後間もないうえその給与も僅かなものであって、家族を扶養する能力があったとは認めがたく、他方原告も一応右和子の養育の任務を終えたといえても、その営業で自己の生活費を支弁するに足りる利益を得ていたと認めることができるから、要扶養の状態にあったとみることはできない。原告は、和子が原告の営業を手伝っていた事実をとらえ、これにかわる人を雇ったとすれば月額最低二〇、〇〇〇円を要するとし、右金額を和子の扶養料支払にたとえるが、和子は家族として自己の勤務と原告営業の手伝とを相伴させて稼働していたもので、仮に右和子の手伝がないため食堂営業が困難になった事実があるとしても、それをもって直ちに和子が原告を扶養する関係にあったと認めることはできない。

従って、原告に法律上和子から扶養を受ける権利があり、いずれ近い将来年令、健康上の理由で扶養を要する状態に立ち至ることが必要であって、その期待権が侵害されたと認め得るとしても、現実に前説示の扶養可能、要扶養の状態にあったと認められない以上原告に扶養請求権があるということはできず、右権利の侵害を前提とする損害賠償の請求は失当として排斥を免れない。

(なお付言するならば、扶養請求権の侵害による損害賠償は前述のように被害者の稼働利益の範囲内で認められるものであるから、右被害者の逸失利益を相続人が相続してしまったと認められる場合には右扶養請求権者の損害賠償は認容されないことになる筋合であり、本件では唯一の相続人である母ヨシヱが自動車損害賠償保険金三、〇〇〇、〇〇〇円のうち金二、九〇一、六六〇円の交付を受けたことが記録上明らかであり、これが右和子の逸失利益の全部を含むのか、なお残部があるのかは検討を要する問題ではあるが、仮にその全部を含むとすれば、原告に扶養請求権があっても賠償を命じ得ない結果となる。)

(二)  祖母の慰藉料請求権について。

民法七一一条は死亡者の父母、配偶者、子の近親者に慰藉料請求権がある旨規定しているが、死亡者本人以外の者の固有の慰藉料請求権を付与するについて同条が制限的に規定したものと解すべき理由はなく、右の近親者と近似する親族であって、その実質において右の親族が蒙るのと比肩し得べき精神的苦痛を感受させられた者については、同条を類推解釈して固有の慰藉料を請求する権利があると解するのが相当である。

前記四項認定の事実と≪証拠省略≫によれば、原告と和子は法律上祖母、孫の関係に過ぎないが、前記のように原告は実母ヨシヱが嫁すに際して置いて行った幼児の和子を自ら引き取り、更にはその後見人となって、全く自己の労力と費用で、母親同様の愛情をそそぎ、手塩にかけて育て上げ、高等学校を卒業させ、ようやくその成人を迎えて、これから実母のごとく敬愛されて、老後の面倒を見てもらおうとしていた矢先、和子の事故死を招いたものであって、既に六三才余の老令にあって孝行者の右和子に将来その扶養を期待していた原告の悲しみと失望は言辞にたとえがたいものがあり、前記のごとき生活上の打撃と不安にあわせてその精神的苦痛は多大なものと認めることができ、この精神的苦痛はその実質において父母のそれに優るとも劣らないものということができる。

しかしながら他方、≪証拠省略≫によると、本件交通事故は見透しの悪い交通整理の行われていない交差点において、前記江西には幅員の狭い南北の道路を南方から徐行もせず、制限速度を越える約二五キロメートルの速度で漫然直進通過しようとした過失が認められるが、他方東方から進行して来た和子にも同交差点で徐行を果さなかった落度(江西が先に交差点に進入している。)が窺われ、更に、被告本人尋問の結果によれば、被告においても自動車損害賠償保険金三、〇〇〇、〇〇〇円の殆んどが戸籍上唯一の相続人である前記ヨシヱに交付されたため、育ての親である原告(被告から金一〇〇、〇〇〇円の見舞金を受領したほか、ヨシヱから前記保険金の分け前を受けていない。)から本訴提起を受ける結果になった事情も認められ、右各認定に反する証拠はない。

以上のような原告の身上、家庭事情と精神的苦痛の程度、更に本件事故の態様と被害者和子の過失、保険金交付のいきさつ等諸般の事情を斟酌すると、その慰藉料は金八〇〇、〇〇〇円とするのが相当である。

(三)  実損について。

≪証拠省略≫によると、原告は和子の死亡に伴い

1  葬祭費      金五四、二一六円

2  写真引伸料(額付) 金二、五〇〇円

3  果物代       金二、五八六円

4  来客用仕出代   金二七、〇〇〇円

5  タクシー代     金三、六〇〇円

以上合計金八九、九〇二円を昭和四三年五月一一日までにそれぞれ支払った事実を認めることができ、前認定のように、原告は唯一人の同居の親族として和子を互助すべき身分関係にあり、右費用の支弁は家族としてやむを得ないものであって、相当の範囲内にあると認めることができるから、被告は原告に対し右費用相当額を損害として賠償する義務がある。

五、以上の理由により、原告は被告に対し前記(二)、(三)の損害金計金八八九、九〇二円とこれに対する前記葬式費用の最終支払日の翌日たる昭和四三年五月一二日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めることができ、右の限度で原告の請求を認容し、その余を失当として棄却することとする。

よって、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 深田源次)

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